饅頭こわい お茶こわい

本好きのただの日記。こわいこわいで食べ放題。

よしながふみ「大奥」の史実と創作の境はどこ?

このエントリーは よしながふみ「大奥」のネタバレしてます。これから読む人は要注意。

 

大奥 10 (ジェッツコミックス)

これ書いてる時点で十巻まで刊行。ドラマ化も映画化もされたので言わずと知れたであろう男女逆転大奥。

このころの堺雅人の優しい微笑みはほんと違和感だらけだった。観てないけど。最近のアクの強いキャラの方がよほどあってると思う。

 

 

余談はさておき、

 

この物語はすでに男女が逆転した吉宗の時代から始まる。若い男性にしか罹らない"赤面疱瘡”の流行によって男の数が激減し、女性が家督を継ぐのが当たり前になった世の中に徳川吉宗 (女) は登場する。大奥に眠っていた”没日録”を紐解くことによって、吉宗はほんの百数十年前までは男の数は女と同じほどたくさんいたことを知る。それは大奥制度が始まってまもなく、三代家光から続く悲しき業を背負わされた者たちの記録であった。没日録を記し続けてきた御右筆 村瀬は吉宗にこの事実を伝えた直後に事切れる。吉宗は赤面疱瘡の根絶を胸に誓うのだった。

と、まあ大筋を書くとこんな感じ。序盤の家光篇や綱吉篇は世の中が男女逆転するに至った顛末が描かれており、話の流れとして非常に重要な部分だし、派手でドラマチックな話なので面白いのだが、欲や嫉妬にまみれた男女のドロドロとした昼ドラのような展開が正直私は苦手だった。が、次第に話は実際の歴史上の事件を絡めて壮大な歴史絵巻になっていく。史実を変えることなく逆転の世界を作り上げ、なおかつ描かれるのは一人一人の細かい心理描写。この素晴らしいバランス感覚にいつしか私ははまっていった。作者の筆が遅いため、新刊が出るころには前の巻までの話はすっかり忘れてしまう。その都度ひっぱり出して読み返すことになるのだが、この漫画、読み返す度に新しい発見がたくさんあるのだ。もう何度も読み返しているが、登場人物の多さとキャラクターの顔が似ている(美人はたいがい同じ顔)せいで未だに全部把握できない。時間軸も行ったり来たりしているので読み返すと、ああこの人こんなとこで出てきてたんだ、てなことがいくつもある。誰かこの「大奥」の年表作ってくれないかなー。実際の歴史年表と二つ並べて比較してみたい。どこが史実でどこが創作なのか教えて欲しい。こんなことを考えてしまうのもこの作品の魅力の一つだったりする。(ちなみに白泉社のサイトには家系図があった。とてもわかりやすいのだが現時点で八代 吉宗までしかないのが残念。でこちらが実際の家系図。かなり横に長いのは子だくさんな家斉のせいか。)

 

赤穂浪士討ち入りの話や江島生島事件の話は圧巻だった。気になったのは八巻で登場する板前 芳三とお幸の方の話。

お幸の方(男)は公家の出で、九代将軍 家重(女)の正室 比宮(男)の御側付として江戸に入った。比宮が若くして亡くなり、京の許嫁のもとへ帰ろうとしているところへ家重の側室になるようにとの命が届く。拒むお幸を強引にとどめる家重には恨まれてでも人の気持ちを自分に向けたいという悲しい業があったのだ。やがてお幸は嫡子 竹姫(後の家治 -女です)を出産。だが家重はその後わざとらしく他の男との仲を見せつけるようになる。お幸は相手の男に刃傷沙汰を起こし投獄されてしまう。お幸の抱いた感情は地位を危ぶむものではなく男としての嫉妬だった。座敷牢の中で自ら死を望み、食事にも一切手をつけなくなったお幸。牢に食事を運んだ御仲居の芳三はそれを聞いて自分の運命と重ね合わせる。当時は下賤の魚と言われていた鰻を蒲焼きにして献上し、お幸は笑顔で箸をつけるのであった。

この話、作品全体の中ではあまり目立つ話ではない。実際の歴史上でも小さな事件だろうと思う。芳三という人物は作者の創作なのだろうか。史実を曲げずに地味な話をとても魅力的に演出しているなと思う。

 

この先はどんな展開になっていくのだろう。十巻で田沼意次の失脚により赤面疱瘡の根絶はなされなかったが、十一代将軍 家斉は男子に戻るようだ。夜の暴れん坊、徳川一の子だくさん家斉はどう描かれるのか。幕末まで将軍はあと五人。逆転した世の中をどう戻すのか楽しみだ。

 

 

この漫画を何度も読み返すうちにちょっと不思議な感覚にとらわれた。ネットで吉宗や田沼意次のことを調べていると、男として書かれていることに違和感を感じてしまったのだ。あそっか、実際は女じゃないんだよね。わははー。

 

 

 

 

 

 

 

大奥こわい。疱瘡こわい。

(これこのブログの決まりとして毎回入れようと思ったけど、全然上手いこと言えないのでもうやめる)

 

 

「大奥」が壮大すぎてよくわからなくなってきたので11巻までのあらすじをまとめてみた - 饅頭こわい お茶こわい

 

 

よしながふみ「大奥」で描かれる事件は史実通りなのか?比較してみた - 饅頭こわい お茶こわい

 

 

アンパンマンを子供にみせたくない親が結構いるという話

何年か前の話だが、twitterのTL上でちょっと気になる投稿を目にした。

日本のアニメは世界中で評価されているのにアンパンマンが海外でウケないのは暴力で物事を解決するからだと。それから顔をちぎって食べさせるのも生理的に嫌悪感を感じる人もいるらしい。

この意見に納得したわけではないが、なるほどそういう見方もあるんだなと少し驚いた記憶がある。

それから数年、私にも息子ができてテレビでアンパンマンを観るようになった。2歳になった今では1日に100回は「アンパンチ」を唱え私の顔をぽこぽこ叩く。やめろと怒っても優しく言い聞かせてもなかなか直らない。まさか保育園でよその子を叩いていたりしないだろうかと不安になった。

そんな時、あのツイートを思い出したのだ。もしかしてアンパンマンを嫌う人って一定数いるんじゃないだろうかと。

アンパンマン 暴力」で検索してみた。

 

多くの小さい子供にとってアンパンマンは最初に出会う正義のヒーローだ。その影響力は絶大で、アンパンチをマネしない男の子は少ないのではないだろうか。ネットではアンパンマンを批判的にとらえている人はやはり小さな子供をもつ親が多いようだが、そうでない人の中にも「ばいきんまんがかわいそう」とか「悪いヤツを排除しようとするのはいじめの構図と同じ」というような意見もみられた。

アンチアンパンマン派の意見をまとめて少し考察してみた。

 

 

一方でそれに反対する意見としては「ばいきんまんが攻撃をしかけてきているので正当防衛」「力のない正義なんて無意味」など、まるで憲法九条改正案に関する議論のようw。攻撃的で意味のない反論ばかり目についた。

海外のことは知らんが、日本で子供を育てると嫌でもアンパンマンに触れる機会はある。家でアンパンマンを見せないようにしても幼稚園や保育園では必ずと言っていいほどアンパンマンのキャラクターを使って遊ばせている。この問題は多くの親が一度は通るものだと思うのだ。

ネットのコメントなんて(特にまとめ記事は)極端なものばかりなのはわかっているがそれにしてもすっきりする意見が一つも見当たらないのは何故なんだろう。そう思っていたところ、とてもすっきり納得のいく意見をみつけた。

アンパンマンの効能?

以下引用

上の娘がアンパンマンに没頭するようになり、絵本も楽しむようになるにはどうすればいいかと考えるようになったころ、相沢康夫氏の「好きッ!絵本とおもちゃの日々」という本(マンガ)を知った。その中に著者の「知育玩具」に対する考え方が書かれていて、なるほどと思ったものだった。わたしなりの言葉で書くと、おもちゃはまず楽しんであそぶためのものであって、それであそんでいるうちに何かが身に付くといった大人の視点からの貧乏くさい了見は捨てるべきだ、ということになる。そして同じことはおもちゃだけでなく、子どもが見聞きするもの一般についても言えることなのかもしれない、いや、子どもの時代はしっかりあそんで、その次の時代からしっかり学ぶというようなことでもいいのかもしれない。そんなことを考えさせてくれたのだった。

 

アンパンマンが子供の教育的にいいか悪いかはどっちでもいいのだ。

子供番組が必ずしも道徳を教えるためのものである必要はないと思う。私は子供が楽しんでいるのを取り上げて親の都合のいいものだけを与えるようなことはしたくない。暴力が悪いことだということは親が教えればいい。むしろ良い機会になるんじゃないだろうか。

 

 

蛇足。

実は私は仕事の関係で、10年くらい前にアンパンマンをたくさん見たことがある。

そのころはアニメのアンパンマンを100本近く観たと思う。10本くらいぶっ続けで観るってのを何日もかけてやってた。

さて、こうしてアンパンマンを立て続けに観ていた私は、割と早い段階でストーリーを追うのはやめていたと思う。毎回同じような展開だし。ところが、たまーに入ってくるんですよ。大人の私が流し見をしながらでも引き込まれてしまうような展開の話が。詳しい話の内容は忘れた。ばいきんまんアンパンマンを助ける話だったと思う。

(検索するといくつか出てきた。動画が観れないので私が観たヤツがどれかはわからない。)

この話のばいきんまんがたまらん!というお話がありましたら教えて下さい。

この「たまーに」良い話が出てくるっていうのがバランスいいんだと思う。毎回予定調和のように同じ展開をみせているので、「たまーに」違った話が効果的なのだ。話を理解できない幼い子供でも、あれ?いつもと違うなというのはきっと感じられる。すぐに忘れてしまうだろうが、子供の中にもきっと何かが残るだろう。大人になって見返した時に、ハッとさせられるだろう。子供番組に何か役割があるとしたら、その程度で充分だと思うのだ。

 

何かいまいちよくわからない結論になってしまった。別にアンパンマンをみせたくない親を批判したいわけじゃないです。

 

 

 

 

 

 

 

ばいきんまん怖い。アンパンマンも怖い?

 

脳の役割をクラウドソーシングするとしたらという妄想

この記事読んだ。

「HDDは過去のものになる」──“容量無制限”のクラウドストレージ「Bitcasa」が日本市場に本格参入

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1308/28/news099.html

 

 

「世界中で30ペタバイトのデータを管理している」とのことだが、もはやこの単位がどのくらいのもんだかさっぱり想像つかない。私は仕事で未だにフロッピーディスクを使う機会があるが、30ペタなんて規模と比べると、広大な宇宙に浮かぶ小さな惑星の中のとある島国のマンションの一室くらいかな。

 

まあ実際bitcasaを使うかどうかは置いといて、HDDが過去のものになるって売り文句はちょっと心躍るものがある。容量無制限の箱に何でもしまっておけて、どこからでも高速でアクセスできるようになるなんてドラえもんのお腹についてる袋みたいだ。

 

便利になるのはありがたいが、あくまで箱。それをどう使いこなすかの方がよっぽど大事なわけで、じゃあどう使おうかちょっと妄想してみる。

ちなみに科学的な知識も根拠もないです。

 

 

脳内に記憶媒体を埋め込むなんて一昔前のSFでありがちな話だが、それって現在は実現可能なんだろうか。脳の海馬やらなんたらと接続して実際の人間の記憶と同じ感覚でデータが引き出せたりするようになるんだろうか。さらに言えば埋め込むチップに通信機能をつけて脳をネットワークに接続。知りたいことを脳内で検索したりできるようになるんだろうか。人間の記憶を暗号化してデータとしてクラウドストレージに保存できるようになるんだろうか。もしそういう未来がきたら人間はどうなるんだろう。

人間の脳が「記憶の箱」としての役割をクラウドストレージに丸投げすることによって「しまっておく」必要がなくなったら、脳は「思考」することに専念できるんじゃないだろうか。メモリを増設ような感覚になるかな。処理速度は上がるのかな。が、やはりクラウドデータ(保存してある記憶)へのアクセスはほんの一瞬のタイムラグがあり、その一瞬が致命的になる場合もあるので、必要最低限のことと、今目の前で起きている事柄の記憶は脳内に保存する必要がある。でもそうでない情報や知識の「量」に関して言えば個人差なんて関係なくなるよね。知らないことがあってもいつでも検索できるんだから。むしろそれを素早く引き出して有効に使う能力が必要になる。

恐ろしいのはやっぱりデータが飛ぶってことか。

幾重にもバックアップはとるだろうが、まかり間違って真っ白けになった日には、恋人の顔がわからないなんてことが起きるかもしれない。そこまで極端でなくとも、通信エラーで欲しい記憶が引き出せないなんて頻繁に起こりそうで怖い。「記憶を引き出さなきゃ」という記憶すら失ってしまったら?それはもう認知症のような状態になるんだろうか。いや、思考回路は活発に働いているのに保存と読み込みができない状態。

いやいやそれ以前に個人の記憶の管理を他人に任せるなんて恐ろしくてできる訳ないか。まあ、それ言ったらSF的妄想はおしまい。

もうちょっと面白いこと書けるかと思ったけど、結局私の貧弱な頭では妄想もこの辺が限界。すでに似たような設定のSF作品はあるかもしれないし、現在の科学的な研究がどこまで進んでるのか知らないが、未来が楽しい方向へ向かうことを願う。

 

 

これを書いているうちにこんな記事をみつけた。

脳と同じように機能するコンピューター

http://wired.jp/2013/09/02/truenorth/

 

『「現行のデヴァイスの代替ではなく、技術的に完全に新しい市場の入り口」となる何か』だそうだ。なんかもうすごすぎて読んでもよく理解できなかったが、とにかくワクワクしてしまう。

 

 

 

蛇足だが、そういえば脳トレで有名な川島隆太教授が以前テレビで脳科学の道に進んだ経緯を聞かれてこんなことを答えていた。(以下、記憶頼りです。正確な引用したかったけど見つからなかった。知ってる人いたら教えて下さい。)

 

中学生の時に人間はどこから来たのだろうという哲学的な疑問に興味を持った。 人類最後の日を目にすれば、この答えが見つかるかもしれない。自分の脳をコンピューターに移しておけば、それを通して最後の日を見ることができるのではないだろうか。

 

この話を聞いて私の頭に浮かんだのは手塚治虫の「火の鳥」だった。

火の鳥 未来編

人間はどこから来てどこへ向かうのか?それは正に手塚治虫火の鳥で描こうとしたテーマであり、未来編の主人公マサトは永遠の命を得て人類最後の日を目撃する。

手塚治虫の描いた未来はテクノロジーの使い方を謝った人類が何度チャンスを与えられても自ら破滅を選ぶという救いのない話だが、川島教授の使おうとしているテクノロジーには救いがあるような気がしてちょっと嬉しくなった。

 

 

 

 

 

未来こわい。人間こわい。

きかんしゃトーマス 挿入歌「じこはおこるさ」のシュールさったら

うちには2歳の息子がいるのだが、世の2歳児男子の例にもれず乗り物が大好きでトミカやプラレールは増える一方だ。特にトーマスが大好きで、朝起きると「あいぱっとはどこだ?」とうろうろ探しまわり、放っておくと一日中ipadでトーマス関連の動画を見ている。最近お気に入りを見つけたらしくかなりヘビーにローテーションしているようだ。その動画を覗き見てぶったまげたので紹介したい。

 


12. Accidents Will Happen - YouTube

 

きかんしゃトーマス挿入歌。うちの息子は1日に20回はこの曲関連の動画を見ているんだけど、なんとなくわかってしまったのだ、気持ちが。

なんだろな この中毒性は!

この曲を使ったMADがかなり作られているようで、特に息子のお気に入りなのがこちら。670万回以上再生されている人気の動画で素晴らしいセンスよ。

 


プラレール きかんしゃトーマス じこはおこるさ (Thomas) - YouTube

 

原曲の英語版も楽しいけど、日本語訳がまた素敵すぎるので歌詞をのっけとく。ゴードンの歌声と終盤のパーシーのセリフが最高さほーら!

 

 

 

スリルなんてちょっとなら楽しみさ

でもイライラすると事故が起きる

へっちゃらさ なんて知らん顔して

走っているとそんな時

事故がほら起きるよ いきなり来る

調子のってやってるとバチがあたる

事故がほら 起きるよ

いい気になってると

そうさ よそ見してるその時に

事故は起きるものさ

 

思いつきでやると きっと 失敗するよ

幸運の女神は気まぐれだから

ウキウキしてると真っ逆さま

忘れないで 気を付けてね いつだって

事故がほら起きるよ 突然さ

運がない時はしょうがない

なんとかしよう

事故がもし起きたら

落ち込まないで

うまくやれるようにがんばろうよ

事故は起きるものさ

 

標識はいくつもあるのにさ

大事なものばかり見落とすね

そんな時必ずやってくる

二度とやらなければいいけど

 

事故がほら起きるよ いきなり来る

調子のってやってると

バチがあたる

事故がほら起きるよ

いい気になってると

そうさ、よそ見してるその時に

事故は起きるものさ

 

事故がほら起きるよ 突然さ

運がない時はしょうがない

なんとかしよう

事故がもし起きたら

落ち込まないで

「まあ自信過剰だと集中力なんてたいがい散漫になっちゃうからね」

事故だ 事故だ

忘れてると事故は起こるさ

ほーら!

 

 

 

聴きました?この壮大なエンディング。説教臭い歌詞にミュージカルみたいな壮大な音をつけるとこんなにも楽しい曲になるなんて。子どもと一緒にいろいろ動画を観てるうちについつい思っちゃったんだよね。うちもプラレールでこんな動画作ってみたいって。

 

それにしても何でトーマスってこんなに子どもに人気があるんだろうか。全くもってかわいいキャラクターではないし、ストーリーも子どもが観てそんなに面白いものでもなさそうなのに。

ちなみにうちの子は1歳になる前にトーマスが好きになっていた。電車や機関車が何かということを理解するより先にトーマス好きになっていたということだ。恐るべしはトーマスの魅力よ。

 

 

 

 

このお話はトーマスこわい、事故こわいというお話でした。

 

速読術を身につけようとしたけど諦めた話

わたくし本を読むのが好きで、それは自分にとってとても大切な時間だと思っている。

が、いかんせん読むのが遅い。まとまった時間をとるのが難しいせいもあって、読書量は月に2冊くらい。年間20〜30冊程度。もっともっとたくさん読みたいと思っているが、集中力にかける自分は本を読んでいる時につい別のことを考え込んでしまうことが結構ある。

例えば本の主人公が「デスクの整理ができなくて悩んでいるシーン」があるとする。

あー、あるある、おれも出来ないんだよなあと考える。するとここから壮大な連想ゲームが始まる。

 

おれも出来ないけど会社の後輩でもっと出来ない奴がいるな。あいつ本当他人のこと考えてないから自分さえわかっていればみたいなデータ整理しかしなくて周りは迷惑してるんだよな。そういえばあのデータはどこのフォルダにいれたのかな。明日確認してプリントアウトしておかないと。ああプリンタが調子悪いんだった。なんか大学のときも同じようなことがあったな。宮田(仮名)がプリンタ壊したんだよ。あれは面白かったな。ボタン一つ押しただけで機械を壊すことのできる特殊な能力を持ってるヤツだった。そういえばあいつ今なにしてるんだろ。全然連絡とってないな。居酒屋で一緒にバイトしてたから仲良くなったんだった。バイトといえばワインのコルクがうまく開けられなくて恥ずかしい思いしたことがあったな。客のかばんにワイン注いじゃったし。先輩にすげー怒られて。あの先輩、やたら絵がうまくて憧れてたんだよな。漫画家なみにうまい絵だった。漫画といえば…

 

はたと我に返る。なんで自分は漫画のことを考えているんだろう。思考がここまで及んだ経緯がさっぱりつかめない。

なんてことが結構ある。ああ時間がもったいない。読みたい本はいっぱいあるのに。もともと読むのが遅いのも手伝って手元のページはいっこうに進まないのだ。

こうして私は速読に興味を持った。

 数ある速読関連本の中から選んだのは苫米地英人の『ほんとうに頭がよくなる「速読脳」のつくり方』。 

ほんとうに頭がよくなる「速読脳」のつくり方 (PHP文庫)

 

 速読にもいろいろあるようで、拾い読みや読み飛ばし(フォトリーディングやキーワードリーディング)で速度を上げる技術が一般的に知られているテクニックなようだ。

だが私は読むのが好きで本を開くのであって、情報収集のための読書という意味は薄いのでそれはしたくなかった。この本を選んだのは読み飛ばしをせずにきちんと内容を堪能できる速読法を売りにしていたからだ。だが私はこの本を読み始めてわりと早い段階でこれは自分には無理だと思い知ることになる。

 

以下、引用

 

みなさんは、私が最近出した本の中に『FREE経済学入門』(フォレスト出版)という本があるのをご存知でしょうか?

 同書は日米でベストセラーとなったクリス・アンダーソン著『FREE』(日本放送出版協会)を題材にした内容となっており、『FREE』には書かれていないフリー(=無料)経済の裏のからくりや盲点、真実をかなり赤裸々に明かしたものとなっています。

 こうした内容のため、私も執筆にあたる前に『FREE』を読んでいます。しかし、350ページほどのこの本を、何分で読んだかといえば、たぶん5分ほどで読んでいるのです。

(中略)

 ではそのとき使った速読術とはどんなテクニックだったのか? みなさんが知りたいのはそこだと思います。種明かしをしますと、答えはとても簡単。特別な速読術を使ったわけではありません。著者のクリス・アンダーソンと同じか、恐らく私のほうがフリー経済学について詳しい知識があったから、わずか5分で『FREE』が読めたというだけの話です。

 がっかりしましたか? しかし、これが速読術の一つの真実です。

 350ページもの本を5分で読みきるには、読者側がもともともっている知識量がなにより大切なのです。

(中略)

 速読とはもともともっている知識量がすべてー。 ということは、普通の速度でまず大量に本を読んでいないと、速読はできないという理屈になります。

 

速く読めるようになるにはたくさん読めと?  むむむう。たくさん読みたいから速く読めるようになりたいのに。

こんなことも書いてあった。

 

多少無理してでもいいので、「速く読もう」と思って読んでみて下さい。すると、思った以上に速く読めることがわかると思います。

  最初は疲れるかもしれません。しかし、慣れてくれば、読書所要時間を半分近くにまで縮めることはそれほど難しいことではありません。

 4時間かかっていた人は2時間、3時間かかっていた人なら1時間半。速読のテクニックも使わず、早く読もうとただ意識するだけで、これは実現できてしまうレベルなのです。

 

疲れる読書はしたくないな。というわけで、ものぐさな私は速読をあきらめました。まあ疲れない程度にやってみようとは思います。

以上、目を引く言葉ばかり拾ったので誤解されるかもしれないな。

それは本意ではないので書きますが、この本は本気で速読を身につけたい人にはとてもいい本だと思う。普段からのトレーニングの方法や読書の際の注意点など、非常に解りやすく納得のいく良書だ。内容はただ速く読むということだけにとどまらず、果ては世界平和にまで及ぶ。得た知識の使い方や、速読によって脳を活性化させること自体が重要だとする考え方も非常に興味深いものだった。

 

ではトレーニング方法を一つだけ紹介。

「レストランに入ってメニューを1秒で決める」

本を速く読むには、目にした文字を素早くイメージ(頭の中で映像化)することが重要で、メニュー即決はとてもいいトレーニングになるらしい。

 

雑な説明だが、是非読んで欲しいと思う一冊です。

 

 

 

 

 

速読こわい、読書こわい。 

 

こうの史代「ぼおるぺん古事記」がすごい

 

はじめてブログというものを書いてみます。

よろしくお願いします。

 

私、古事記がすきなんですが、こうの史代の漫画「ぼおるぺん古事記」が非常に面白かった。

 

古事記を読んだことのない人のために、簡単に。

「八岐大蛇」や「因幡の白兎」「海幸彦 山幸彦」など昔話には触れたことのある人も多いだろうが、古事記を通して読んだことのある人となると結構限られるか。

日本最古の歴史書で、たくさんの神様が天や黄泉の国や海の中を行き来して怪物を倒したり暴れたり殺し合ったり愛し合ったりして日本という国ができましたというツッコミどころ満載のとんでもないお話。

(余談だが、冒頭の混沌から天地が作られる話やすごく下世話でわがままな神々って点でギリシャ神話にすごく似ていると思った。所詮人間なんてどこの国にいても同じようなことを考えているってことなのかな。)

古事記日本書紀とともに700年代前半に書かれている。

天皇家の神格化を目的として編纂されたものだが、天皇家と藤原氏の政治的な思惑が色濃く盛り込まれた“記録”としての日本書紀に対し、文学的な表現の多い古事記は「これホントに天皇のために書かれた文章か?」と思わせるほど泥臭く人間臭い、愛憎や嫉妬にまみれた弱くも愛すべき神々が描かれている。(さも知った風に書いているが、日本書紀は読んでいない)

 

古事記は各地に伝わる伝承・民話をくっつけて一本にまとめたものであるためか、設定や人名(神名)に一貫性が無い。 

名前は非常に長くいくつもあって、表記のしかたも突然変わる。

話は唐突に始まってあっさり終わる。

数えきれないほどの神々がお経のように羅列され、ほとんどキャラが掘り下げられずに話だけが淡々と進んでいく。

さらにいちいち長い尊敬語や枕詞がこれでもかとくっついて、読みづらさに輪をかけている。

こうの史代はあとがきにこんな言葉を。

 

初めて見た原文は、「記す」喜びにあふれていました。漫画になるのを待っている! と感じました。

 だって、漫画にはサイレントという絵のみで展開させる手法があるのです。文字を使わず意味を伝えられるのだから、古文がついたからって読めなくなるはずがないのです。

 

実際に読み終えて、サイレントをとても効果的に使った素晴らしい漫画だと思う。

文字表記に関しては原文の訓み下しをそのまま採用していて(注釈はあり)この点では一切演出を加えていない。それがより一層作者の表現力の非凡さを際立たせている。

こうの史代がすごいのは行間の描きかただ。

古事記原文は奇想天外な話をかなり早いテンポで淡々と描いていて、単純に文章を追っていると登場人(神)物の感情の部分は見えてこない。読み手の想像に委ねる部分が大きいというのが昔話の魅力なのだが、想像力の乏しい私には今一つピンとこないシーンは多い。こうの史代が絵をあてると、それは豊かな情感に溢れ、個性的なキャラクターが活き活きと輝きだすのだ。

古事記はこの絵をもって完成形なのではないんですかねと思ったり。

 

 

 

 

では実際、自分がすごいなと思ったシーンをいくつか。

 

 

水蛭子(ヒルコ)かわいすぎ。

 

 イザナギ・イザナミに最初にできた子が水蛭子(ヒルコ:ヒルのように骨のない出来損ないの子ども)だったという場面。

原文にはできた子は水蛭子だったので葦船に乗せて流したとしか書かれていない。

作者があてた画もまさしくその通りなのだが、この水蛭子、可愛くてたまらない。

遠くで独り釣竿たらしてる水蛭子が気になってしょうがない。

かといって話の本筋には関わってこないので意味深に描くこと無く、あくまで原文を崩さない。

 

天照大御神(アマテラスオオミカミ)が真ん丸顔の二等身キャラ。

 古事記関連本にしろファンタジー系ゲームにしろ、大概のメディアで超絶美人として描かれるアマテラス(天皇家の祖神で高天原を統べるすごく偉い人)がおでこピカッと光るほど丸い。このビジュアルにはかなり驚かされた。でもよく考えてみると、確かに原文には美しいなんてどこにも書いてないし、わがままで独りよがりなイメージは合っている気がする。

 

その二十二「さるさる」 役目を終えたサルタヒコをウズメが送っていく場面。

 ここではサルタヒコが海で大きな貝に手を挟まれて溺れかける話が出てくる。このときに漫画ではウズメがそばに付き添っていてどうにか助けようとする様子が描かれている。つまり送る途中の話として描かれているのだ。私は古事記の現代語訳や解説本を何冊か読んでいるが、どうやらこの話は過去にあった出来事の紹介と解釈している本が多い。そういう意味ではここにウズメがいるのは本来はおかしいように思う。注釈でも何も触れていないが、作者がそれを知らないわけはないだろう。

この話は古事記の中でも浮いているというか、とってつけたような感じがある。私はずっとこの話は無くてもいいんじゃないかと思っていたのだが、漫画を読んで考えは変わった。ウズメもサルタヒコもとても魅力的なキャラとなり、この第二十二話は個人的に大好きな話となった。

しかも三巻目「海の巻」の表紙(帯)がウズメだし。この人選にも驚いたね。

 

サブタイトル

各話のサブタイトルには「あなにやしあなにやし」「ちわきちわき」「ことごと」などすべてくりかえしの言葉がつけられている。

これは原文に実際でてくる言葉(反復語じゃないのもあるけど)で、それぞれの話をうまく一言であらわしたとても面白い小見出しだと思う。

古事記にはこういった韻をふむような言葉使いや、会話のなかで相手と同じ台詞を繰り返すなどリズミカルな表現が多数みられるが、これは古事記がもともと口承によって代々伝わってきた話を文字におこしたもので、口語意識の強い文章だからだそうだ。

このへんは三浦佑之氏の「口語訳 古事記」が面白い。

 

挙げればきりがないのでこのくらいにしておくが、余裕のある人は原文を読んでからこの漫画を読むとその凄さがよくわかると思う。古事記を読んで途中で挫折した人は、この漫画を読んでからもう一度原文を読むとより一層理解が深まるはず(私がそうなので)。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにこの漫画はweb連載されていたものらしく、終盤の話は平凡社のサイトで今でも(13年04月現在)読める。

実はこのサイト自体、私はつい最近知ったのだが、連載当時のコメントがページごとに書いてあって(単行本にはない)紙で読んだ人にも興味深いものだった。

 

また、新刊展望という雑誌での対談でもなかなか面白い話をしているのだが、途中で切られていてひっくり返った。

むむう続き読むために金を出そうか考え中。

 

 

 

 

こうの史代こわい 古事記こわい