手塚治虫が三度挑んだ「ファウスト」
手塚治虫は生涯で三度、ゲーテの戯曲「ファウスト」を漫画化している。
「ファウスト」
「百物語」
「ネオ・ファウスト」(未完)
さて、私は「人生で大切なことは全て手塚漫画から教わった」と思っている類の人間でありますが、そういう輩は大概、手塚先生の考えていたことに少しでも近づきたい、もっともっと知りたいと思ってしまうものであります。
手塚治虫をこれほど惹きつけた「ファウスト」の物語は一体どんなもんかと原作に手を出すわけですが、十数年前に読んだ森鴎外訳は、初っ端から呪文のような文字の羅列を目にしてわずか2ページで挫折。
その後長らく押し入れの奥に封印されていた。
ところが、最近になってKindleでこんな本をみつける。
レビューには「一度挫折した人にこそ読んで欲しい」的なことが書いてあるわけですよ。
ホンマかいなと思いつつ購入してみたら、これが本当に面白い。
あまりに下品なセリフのオンパレードに電車の中で必死に笑いをこらえながら読むことになるのです。
原作を未読の方はどんなイメージを持っているだろうか。
偉い学者先生が書いた難解で仰々しい書物ですって?
悪魔 メフィストフェレスとのやりとりをちょっとだけ引用するのでまあ読んでみてくださいよ。
ファウスト いいか、あの娘っこをおとすんだ。
(略)
メフィスト (略)ああいうのはわたしの手には負えません。
ファウスト 年齢はもうクリアしているはずだ。
メフィスト その口ぶりは、もう一丁前の女たらしそのものだ。(略)
ファウスト (略)公序良俗を守れってか?この際、はっきり言い渡しておく、あの、かわいい、ピチピチの娘っこを今夜この胸に抱けなかったら、今夜限りでキサマとは縁切りだ。
(略)
ファウスト おれならものの七時間もありゃ、悪魔の手をなどかりなくても、あのご馳走はいただきだ。
メフィスト 恐れ入った口の利きようだ。フランス人そこのけだ。(略)
ファウスト そんな悠長なことやってられるか! すぐに取って食いたいんだ!
メフィスト 食いたい食いたいと、そう鼻息ばかり荒くされてもねえ。(略)
ファウスト じゃあ、あの娘の身に着けているものを何か持ってこい。おれをあの娘の寝床へ案内するんだ。せめて、あの娘の胸のスカーフでも、靴下留めでもいい、それを慰めとしよう。
ちなみに「あの娘っこ」は名をマルガレーテといいまして、年齢は14才です。
メフィストが「悪魔」で、ファウストが「人間」です。
さぞや難解で高尚な文学作品だと勘違いしていたゲーテの「ファウスト」。
手塚版の三作の前に、まずは少しばかりこの原作のお話をしなけりゃなりませんな。
前提
手塚治虫が描いた三作品は全てゲーテの「ファウスト」を原作としているようだが、そもそも「ファウスト」はゲーテのオリジナル作品ではない。
16世紀頃からドイツで伝説として語られたファウストの物語を、およそ200年後、ゲーテは戯曲として発表。
ドイツに伝わるファウスト伝説
民衆本「実伝ファウスト博士」(作者不詳)あらすじ
ヨハネス(ヨハン)・ファウストは月夜のある日、魔法円を描きサタンを召喚し、サタンの従者メフィストフェレスを呼び出した。そして、メフィストフェレスを24年間使役するかわりに、自分の肉体と魂を売る契約をした。ファウストは贅沢な暮らしの中、近所の娘に恋をした。その娘と結婚したいと欲するも、メフィストフェレスとの契約に違反するため願いは叶わなかった。そしてファウストは、ギリシア神話のヘレンを連れてくるようにとメフィストフェレスに命じた。同棲の末、ファウストとヘレンはユストゥスという息子をもうけた。だが最期にファウストはその息子ユストゥスに殺された。
wikipedia「ヨハン・ファウスト」より
ゲーテの戯曲「ファウスト」
長くなってしまうので、本当にざっくりとしたあらすじだけ紹介。
主観たっぷりでお届け。
天上の序曲
主(神)の前に悪魔メフィストフェレスが現れる。
人間の愚かさを語り、ファウストという学者を誘惑するという賭けを持ちかける。
悲劇 第一部
学問の奥深さに絶望する老博士 ファウスト。
メフィストはあらゆる欲望を叶え、快楽を与えることを約束する。
人生をやり直して、その瞬間に満足し、「時よ止まれ!おまえはじつに美しい!」と言ったら、死後の魂をメフィストに委ねることを条件に。
ファウストは若返ってマルガレーテと恋に落ちるが、やがて悲劇の別れが訪れる。
悲劇 第二部
ファウスト、皇帝に仕えて国家の財政難を乗り切る(メフィストのおかげで)。
皇帝に絶世の美女ヘレネ(ギリシャ神話の女神)と連れてこいと言われて神話の世界へ。
ヘレネと(メフィストのおかげで)結婚して一男をもうけるが、息子は死んでしまう。
現実世界に戻ってきて戦勝を上げる(メフィストのおかげで)。
土地を貰って理想の国家建設を目指す。
勘違いから「時よ止まれ!おまえはじつに美しい!」と言ってしまい、ファウスト死亡。
メフィストが賭けに勝ったので、魂を地獄へ導こうとする。
「むかしグレーチヘン(マルガレーテの愛称)と呼ばれた女」が魂を横取りし、天上へと救済する。
「美女をモノにする」
「理想郷と呼べる国家の建設」
である。
しかしメフィストに命令はするもののその行動には全くと言っていいほど主体性がなく、なげやり。
ただひたすらに願いを叶えろと要求する。
関わった人間を悲劇に追いやっても罪の意識はない。
ゲーテが描こうとしたファウストは、どこまでも薄情な人でなしなのです。
「史上最高に面白いファウスト」(文春e-book)中野和朗 より
途中、本筋を外れて唐突にギリシャ神話を絡めて人造人間(ホムンクルス)を登場させるも大した見せ場なくあっさり死ぬ。
このシーンはファウストの物語とはほとんど関連性がなく、全く別のストーリーをむりやりねじ込んだかのような印象を受ける。
キリスト教の批判とも取れるような内容を書いておきながら、最終的な結末では主人公の救済を描いている。
他人の犠牲を顧みず、ひたすら自欲を求めて生きた男が、なぜか救われる。
長い年月をかけてようやく賭けに勝った悪魔がちょっと可哀想。
「何故ファウストは救われたのか」
このラストシーンについては未だに議論の的となっているが、少なくとも当時のドイツの歴史的背景を知らない我々日本人にとって、理解するのは難しいと思う。
ゲーテは一体何が言いたくて60年もの歳月を費やしてこの壮大な戯曲を書き上げたのだろうか。
批判めいたことを書いたが、私はこれをつまらないと感じたわけではない。
そもそも紹介した中野和朗氏の本は原作を全て翻訳した「訳本」ではなく、日本人に分かりやすいように当時のドイツの時代背景や日本で翻訳され始めた当時の状況などを解説しながらダイジェストでストーリーを紹介していく形をとっている。
つまり私は「原作を読んだ」とは言い難いわけだ。
さて、手塚治虫はこの素材をいったいどう料理したのだろう。
面白いのは、描かれたのが初期、中期、最晩年となっているため、作者の作風の違いがはっきりと表れているところ。
絵柄の違いはもちろん、手塚治虫の興味、思考、メッセージ性が移り変わっていく様子が見て取れる。
全く違うアプローチで描かれた三作品、まずは登場人物を比較してみる。
(※以下、ここで言う「原作」とはファウスト伝説のことではなく、ゲーテの戯曲「ファウスト」を指します)
主要登場人物の比較
ファウスト
原作
悪魔と取引きして若返り、欲望のままに無自覚に罪を重ねる主人公。
悪魔が語る「愚かな人間」というのがゲーテが描いた大きなテーマ。
「ファウスト」
頼りないようなカッコいいような。
ドタバタシチュエーションコメディとしての面白さが主体の作品なので、キャラクターを深く掘り下げるような描写はない。
「百物語」
集英社文庫「百物語」より
最初の名は一塁半里(いちるいはんり)。これは原作のハインリッヒ・ファウストをもじった名前。生まれ変わって不破臼人(ふわうすと)を名乗る。
ただ若返るのではなく、別人になっているというのがポイント。臆病で冴えない下級武士であったが、スダマに叱咤されて心を入れ直し、見違えるように成長していく。
ラストの告白シーンは男も惚れるあっぱれな覚悟。
「ネオ・ファウスト」
大学教授 一ノ関。時代を遡った上で若返り、記憶をなくす。坂根第造に拾われて、以後は坂根第一を名乗る。
卓越した頭脳と強い野心で経済的な地位を築いていく。メフィストに命令はするが、信頼を置いているわけではないようで、あくまで利用価値のある女扱い。
信じられるのは自分のみ、といった強い意思と孤独が感じられる。
メフィストに、今夜あの子を抱きたいからなんとかしろと迫る坂根第一
メフィストフェレス
原作
ゲーテの描いたメフィストは悪の権化というよりセコくて下品な狂言回し。初登場シーンの第一声は「ちょいとごめんなすって。メフィストでございます。」
以下、登場シーンをちょっと引用
「メフィストが登場。主と大天使たちの立ち居ふるまいとは、きわめて対照的に、せわしなく、おっちょこちょいで、いちいち軽い。声はやや高いオクターブで、表情は豊か。」
「ファウスト」
黒いプードルの姿をしている。ファウストとは相棒のような関係にみえる。
真の姿はなぜかマントをまとったヒーローみたい。
「百物語」
集英社文庫「百物語」より
作中での名前はスダマ。美しい女性。献身的に世話を焼く。次第に主人公に惹かれていき、悪魔としての掟を破って救済する様は明らかにヒロインとしての役回り。
集英社文庫「百物語」より
鳥に嫉妬するスダマ
「ネオ・ファウスト」
妖艶な美女。こちらも主人公に惚れ込む嫉妬深い女性。しかしご主人様に従順なだけではなく、自身の欲望ものぞかせる。女としてファウストを何度も誘惑するが、振り向いてもらえない。目的のためには手段は選ばず冷酷。ミスをして主人公に怒られることも多い。
マルガレーテ(グレーチヘン)
原作
若返った主人公と恋に落ちる近所の娘。最初の出会いでは若干ツン要素あり。以降はデレのみ。
恋は盲目。恋路を母親に邪魔されないようにと、ファウストにもらった睡眠薬を盛るが、分量を間違えて母は死んでしまう。
その後、兄がファウストを目の敵にして決闘を挑むが、メフィストの助力を得たファウストによって返り討ち。
マルガレーテは罪の意識から、生まれてきたファウストとの子供を殺してしまい、気が触れる。ファウストは彼女を救い出そうと牢獄へ忍び込むが、逃げ出すのを拒否される。置いて逃げるファウスト。ギロチン刑に処せられる朝が来る。
「ファウスト」
架空の王国の姫として登場。天上の主(神)より送られた天使の生まれ変わりという設定。
子供向け漫画であるための配慮か、嬰児殺しの罪は描かれない。
最終的にファウストを救済するのは、マルガレーテの愛ではなく天使の御業。
「百物語」
集英社文庫「百物語」より
作中での名前は真砂(まさご)。主人公の娘として登場。
父とは知らず、不破臼人(ふわうすと)に恋をしてしまう。優しい父の面影を主人公に見るが、結果的に人を殺すシーンを目の当たりにして絶望する。
手塚治虫が主人公を「若返らせる」のではなく、「別人に生まれ変わらせた」のは、この再会シーンで父だとわからないようにするためだろう。
物語の重要キャラとはなり得ないというのが他作品との大きな違い。
「ネオ・ファウスト」
作中での名前は高田まり子。学生闘争に身を捧げる純真な女性。
嬰児殺しの罪も描かれており、原作通りの悲しい末路。
もし絶筆がなければ、その後が描かれていた可能性もある。
歌詞はアレンジされているが、原作通りねずの木の歌を歌うまり子。ゲーテが引用した大元のネタはグリム童話。
「ファウスト」(1950 単行本)
初期の手塚作品の例にもれず、コミカルでかわいいキャラたちが生き生きと描かれる。
等身が低く丸っこいキャラクター。
動きを表現する線もくるくるした曲線で描かれている。
複雑な二部構成となっていた原作を、一本の分かりやすいストーリーにまとめ直している。設定を大きくいじりながらもしっかり辻褄の合った構成は見事。
盛り込んだストーリーは小ネタまでもが原作に忠実ながら、あくまで児童向けの楽しいファンタジー作品といった印象。
しかし原作の壮大な物語を、わずか120ページほどの漫画に収めた結果、駆け足気味のダイジェストといった感がいなめない。
主人公ファウストが「努力することがわしの探していた満足じゃった!」と語るシーンもあまりに唐突。
一体どこに「努力」が描かれていたのか。
「人を殺してしまった」と絶望した次のページで突然「満足」を語るファウスト
ラストの救済されるシーンも契約をぶち破る神側の一方的な超展開で幕を閉じる。
読者ポカーン。しかしある意味これも原作に忠実か。
この『ファウスト』が発表された当時、手塚治虫はマンガを日本に文化として根付かせるための手段のひとつとして、名作文学のマンガ化に意欲的に取り組んでいました。
その一環として、このあとドストエフスキーの『罪と罰』や、シェイクスピアの『ベニスの商人』のマンガ化も手がけています。
手塚治虫公式サイト マンガwikiより
つまりあくまで「手段」として描かれており、端から手塚治虫の作家性が入り込む余地は無かったのだと思われる。
「百物語」(1971 週刊少年ジャンプ)
前作と比べると格段な表現力の向上が見て取れる。
写実的な背景、派手なアクションとコミカルな掛け合い、どのキャラも非常に魅力的でストーリー展開もわかりやすい。
舞台を戦国時代の日本とし、原作で登場したギリシャ神話の神や悪魔は日本古来の妖怪に置き換えられている。
何より大きな変更点は、原作ではどう考えても主体性のない傲慢な人でなしであった主人公がヒーローとして描かれていることである。
しがない下級武士が二度目の人生をやり直すべく、努力と知略を持って成長していく冒険譚。
主人公が強い意志を持って前向きに行動する様は、まさに少年漫画の主人公。
メフィストフェレス(作中では「スダマ」)を女性として描いてかわいいヒロインに仕立てあげた。
苦悩するのは主人公ではなく悪魔であるスダマの方であり、魂を救済するのもスダマの愛である。
その結末はあまりに切なく美しい。
集英社文庫「百物語」より
メタメタにポー
ラストシーンで救済されるためには主人公は読者に気に入られるキャラクターにする必要があったと思われる。
描かれるのは「人間の罪」ではなく、人生をやり直す希望。
個人的なことをいうと私はこの作品が大好きで、数ある手塚漫画の中でも一番読み返している回数が多いと思う。
集英社文庫「百物語」より
死を受け入れて「満足」する主人公とそれを止めるスダマ
「ネオ・ファウスト」(1988 朝日ジャーナル)
現代の日本が舞台。学生闘争から始まり、政財界の権力者との駆け引き、主人公の強い野心と欲望が描かれる社会派ドラマ。
細い線で細かく描き込まれた直線的な背景。陰影をあまりつけず、黒ベタと白抜きで表現されている。
面白いのは、ただ若返っただけでなく、時代を遡っている点。
これによって主人公は同じ事件を繰り返しながらも、微妙にずれたパラレルの未来に足を踏み入れることになる。
もし絶筆とならなかったなら、この先はどんな展開が待ち受けていたのか。
手塚治虫は長谷川つとむ氏(日本大学教授)に、構想に関する相談をしていたそうで、朝日文庫の巻末に記載された氏の解説で、物語の核心に触れる重要な構想が明らかにされている。
この物語の初めに、丸い球の中にある女性を描いたが、ヘレネを地球存在そのものをあらわす生命体として表現したい。
ゲーテの作品ではホムンクルスという人造人間がちょっと出て来てすぐ消えるが、今度の作品では最後まで生かしたい。過激派のリーダー石巻が死ぬ前に主人公の坂根第一に託していった本人の精子がクローン人間として誕生する。このクローン人間には、石巻の持っていた根っからの闘争精神があるのだが、それを坂根が新しい生命体に作り直す。そしてこのホムンクルス型の生物が地球を破壊する。つまりこの作品は、バイオテクノロジーに対する不安もしくは拒否反応がメインテーマなのだ。
ところが地球が破壊されてしまうのだから、ゲーテが『ファウスト』作品に導入した “救い” がなくなって、伝説上のファウストの地獄堕ちという形になりそうである。下手に描くと夢も希望もないカタストロフィーに終わってしまう恐れがある。さればと言って救いを導入すれば、安易な妥協的なものになるので、迷っている
朝日文庫 「ネオ・ファウスト」解説 より
原作はあくまでファウスト個人の物語であったが、どうやら手塚治虫は世界に影響を及ぼすほどの歪んだ欲望を描こうとしていたらしい。
坂根第一がホムンクルスを生み出し、破滅の未来に向かうことになるのなら、それこそまさに「悪魔」の所業。
「満足した」という言葉が聞けない限りメフィストは契約を果たすことはできない。
破滅の未来を持って主人公が「満足」するのだとしたら、ラストシーンで魂の救済はありえたのだろうか。
自分のクローンと作って欲しいと頼む石巻
手塚治虫が原作から受けた影響
ここで一旦、話を原作に戻したい。
ゲーテの「ファウスト」には非常に興味を惹く名セリフがたくさんある。
特に悪魔が吐くセリフは現実の人間社会に対する皮肉がたっぷり。
冒頭の「天上の序曲」で主に向けた言葉。
メフィスト「(略)人間て奴は、旦那が”光のかけら”なんぞを分けておやりなすったので、いい気なもんですぜ。万物の霊長などとぬかし、宇宙の支配者を気取っております。やりたい放題のあげく、相も変わらず共食いを競い合う始末でさあ。これじゃあ早晩、旦那がお創りになった万物を道連れに、地球を破滅させかねませんぜ。このあっしでさえ、背筋が凍ります。クワバラクワバラ。」
これに対して主はこう答える。
「人間は、努力をする限り、迷うものだ」(相良守峯訳)
この有名なセリフはゲーテの「ファウスト」の重要なテーマの一つだと言われている。
どの翻訳本をみてもだいたい似たような訳がつけられている。
しかし中野和朗はこの一文に関して非常に興味深い考察をしながら、他の人とは違った訳をつけている。
「人間が、野心にかられて奮闘努力すれば、必ず、罪を犯す」(中野和朗訳)
この訳は一見似ているようで全く違う。
私にはこれがゲーテの意図を正確に捕らえた名訳なのかどうかの判断はつかないが、
少なくとも、手塚治虫がゲーテの「ファウスト」を読んで受け取ったメッセージはこの中野訳が一番近いのではないかという気がしている。
さらに悪魔メフィストは人間をボロクソにこき下ろす。
この星のちっちゃな神様は、いつもいつも妙なことばかり、
それこそ天地開闢の日このかた繰り返しています。
ほんとうなら、もっとましな生き方もできたんでしょうが、
旦那がお天道さまのかけらなんぞ分けてやるからですぜ、
そいつを理性だ知性だと呼んで振り回したあげく、
犬畜生より、もっとひどいことをやらかす始末でさあ。(281~286)
「この星のちっちゃな神様」というのが人間のこと。
ゲーテの「ファウスト」は人間が欲望にかられ、罪を犯すことがテーマになっているのである。
人生をやり直しても罪深き人間。
そしてそれこそがきっと手塚治虫が「ネオ・ファウスト」で描こうとしたことだ。
ゲーテはメフィストに痛快な皮肉を幾度も語らせるが、それは単発的な捨てゼリフのようなものばかりでストーリーに直接影響するようなことは起こらない。
たとえば、人間が生み出したホムンクルス(人造人間)にうまく誘導され、古代ギリシャ世界に旅立つことになったシーンのセリフ。
メフィスト「あくせくしたあげくに、あたしたちは自分が生んだものに振り回されるんですな。」
まるで人間のようなこのセリフ、はっとするような皮肉が利いているが、このシーンでも別に「自分で生んだものに振り回される人間の悲哀」が描かれているわけではない。
「悲劇」は起こっても「悲哀」はないのだ。
手塚治虫はこういった現実社会への皮肉を一つのセリフで片づけるのではなく、きちんと物語の要素として落とし込もうとしていた。
ホムンクルスに地球を破壊させることで描きたかったのは、主人公の苦悩だろう。
ホムンクルスを生み出して「生命をこの手に握りたい」
世相を反映させた展開。ベトナム戦争に踏み切ろうとするアメリカに枯葉剤を売って大金を作ることを迫るメフィスト。セリフで語らなくとも人間への批判は不足なく盛り込まれている。
後期の手塚作品は社会風刺の要素が強くなる。
「火の鳥 生命編」はクローン人間を撃ち殺す狂気のテレビ番組の話。
まさに「科学技術を上手く使いこなせず自滅する愚かな人間の悲哀」がテーマだった。
ゲーテの原作を読んで、自分のほうが面白く描けると考えただろうか。
描く度にもっともっと面白くできるはずだと思っていただろうか。
「ネオ・ファウスト」は完結していればきっと傑作と呼べるものになっていたはずだ。