誰が何と言おうと正しいと信じる道を行く。正義の漫画6選
自分は保守的で小っさい人間だってことを知っているので、真っ直ぐ突き進む人には憧れる。
心底かっこいいと思う漫画を集めてみた。
結果、ほぼ別ジャンルからのセレクトに。
ちなみにヒーローモノとか、漢気あふれるとか、そういう格好良さではないです。
それと、私の書く解説文は長たらしい上にネタバレ含みます。
キーチ
両親を目の前で殺された染谷輝一は、たった一人でふらふらと姿を消してしまう。ホームレスの女に誘拐されたあげく捨てられる。山の中で魚や虫を獲ってひとりで生きる4歳児。数ヵ月後に発見されマスコミの寵児となる彼は、誰にも曲げられない強い心を持っていた。
小学生になった輝一。クラスメイトには父親に売春を強要させられる少女がいた。売春相手は大物政治家から同級生の父親まで含まれるという悲劇。警察にもテレビ局にも圧力がかかり、この事実を隠蔽しようとする。輝一は国会議事堂前を占拠して警官を前に発砲。法や秩序ではなく、ただ己の気持ちに真っ当であろうとする小学生の姿がニュース映像として全国に中継され、英雄視されていく。
と、ここまでが「キーチ」の物語。何ら解決しない物語は「キーチVS」へと繋がっていく。
ゲスい大人たちを相手取って何があっても決してぶれないキーチの強さに惹かれる。
新井英樹の漫画はいつも読者を嫌な気分にさせる。
ヒロインはわざとブスに描くし、出てくるキャラも起こる事件もヘドがでる。
誰かに世の中を変えて欲しいと願う人に希望を持たせておいて、お前がやれと突き放す、どうしようもない無力感と絶望を感じさせてくれる漫画。
続編の「キーチVS」では、カリスマ扱いされたり一方でテロリスト扱いされたりすることに嫌気がさして日本国民に宣戦布告。本当にテロリストになって、好きな女ができて気持ちはブレブレになったりしてしまうのだが、
それはまた、別の話。
愛すべき娘たち
ある家庭を中心に、その周りに集まる人々を描いた連作短編。
母は娘に相談もなく、若い男と再婚する。相手は娘より若い元ホスト。騙されているのではと疑った新しい義父の、予想外に良い人柄に戸惑う娘。ずっと側にいると思っていた母を”取られた”と感じ、居場所をなくした娘は、結婚を決めて家を出ていく―
何も倒錯した愛情を描いてるわけでもないし、風変わりな設定があるわけでもない。特別アクの強いキャラがいるわけでもない。ごく普通の人々のよくありそうな話。それでもこの濃密な時間の進み方は何なんだろう。こういう話が書けるのは女性作家特有の感性なんだろうか。
特に印象に残ったのは第3話。
「人には分け隔てなく誰にも平等に接しなさい」幼い頃から祖父にそう言い聞かされた莢子(さやこ)は、その言葉通り誰にも優しく微笑むことのできる美しい女性に育った。それは母親からみても出来過ぎていると思えるほど優しく清らかな女性であった。しかし同世代の友人が結婚していく中、自身は結婚に踏み切ることができない。見かねた伯母が見合い話を次々に持ってくる。やがてとても澄んだ瞳をした男性と出会う。惹かれれば惹かれるほど苦しさを感じる莢子。「私、気づいてしまったのよ。誰かを好きになるって、分け隔てるってことでしょう」
ほとんどネタバレしてしまったが、最後の結末だけは書かないでおきます。ぜひ読んでみてください。
こういう決断をする人にとても心惹かれます。
ヴィンランド・サガ
中世の北欧を舞台にしたヴァイキング叙事詩。名作「プラネテス」を経て、この連載が少年誌で始まった時は、こういうエンターテイメント作品も描くんだとちょっと意外に思った。騙された。
寒さの厳しい北の海で豊かな大地や財宝を奪い合うヴァイキング。父の仇の首を狙いながら、共に略奪を繰り返す主人公 トルフィン。やがて掲載誌をマガジンからアフタヌーンに変えて方向転換。当時の奴隷文化にも踏み込んで重ーい展開に。奴隷期を抜けて目が覚めたトルフィンは暴力を捨て、誰もが豊かに暮らせる憧れの大地 ”ヴィンランド”を目指す。
対比して描かれるのがノルド人の王となったクヌート。虫も殺せないほど臆病で優しい青年であった彼は、殺し合う荒くれ者たちの中で絶望する。神は弱き者を決して助けてくれはしない。世を統べる者として生まれたことに使命感を感じる若き王。彼はこの世界を変えるために大嫌いだった暴力を使うことを決意する。
この二人が14巻で対峙する。長かった。これを描くためにこの作者は長い前置きをここまで描いてきたのだろうか。
目指す世界は同じなのに、逆から入って逆の方向へ抜けていった二人。この先、再び二人が交差する時はくるのだろうか。
正しい方向へ向かうため、自分の信じる道を進む男たちの迷いと決意に惹かれる。まだ完結していないのでこの先の展開に期待。
レッド / レッド 最後の60日 そして浅間山荘へ
レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ(1) (KCデラックス イブニング)
- 作者: 山本直樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/02/23
- メディア: コミック
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正しいと信じたことが間違った方向へ転がると、とんでもない悲劇を生むという話。
これに限っては心惹かれる要素はない。
連合赤軍事件を題材にした漫画。個人名を変えてはいるが、ほぼ事実をなぞって描かれている。セリフも資料からそのまま使ったりしているが、やはり作者 山本直樹の色が濃く出ている気がする。説明的な文章はほとんどなく、事件を知らない読者は置いてかれる感が強い。が、この淡々とした演出がこの漫画の良さであったりもする。
1960年代後半、日米安保をきっかけに盛り上がった学生運動も下火になりつつあった。それでも共産主義に傾倒し革命を目指す若者たちは、過激な武力闘争へ。
私は世代的にこの事件を知らないが、ちょっと興味があっていくつか関連書籍を読んだことがある。
この漫画の連載が始まったとき、これはあまり期待できないのではないかと思った。当時の学生運動の盛り上がりを知らない世代からすると、革命を志す人たちに共感できる要素が少なすぎると思ったからだ。
どうしても異質なテロリスト集団として映ってしまう。
しかし、読み進めるうちに次第にその違和感がなくなってきた。相変わらず共産主義にこだわる気持ちは理解できないが、当時の若者達が社会に不満を持って、より良くするために命がけで活動していたというのは伝わってくる。
7巻以降、山岳ベースでの壮絶な総括シーンが続く。閉塞した空間の中で、集団を維持するため厳しく律して追い込み、同士を次々に殺していった彼らの中に、もし自分がいたらと考えてしまう。
幹部として指導する立場であった森や永田(作中では「北」と「赤城」)の心にあったのは混じりっけのない「正義」だったのだろうか。建前の「正義」を、集団の中で誰もが否定する勇気がなかったら、こんな惨劇が生まれてしまうのだろうか。
正直読み進めるのがしんどいくらいの鬱展開。けど目が離せないのも事実。
結末がわかっているだけに早く浅間山荘に行って欲しいと思ってしまう。
同じ月を見ている
号泣。もう震えが止まらない。
初めて読んだのは確か漫画喫茶だった。始発を待つまでの時間つぶしのつもりが、全巻読み終えるまで帰れなくなってしまった。声を殺してボロボロ泣いた。
土田世紀の漫画は直球すぎてあざとさなんか逆に感じない。演出が巧いとか下手とかの問題ではなく、力技でねじ伏せられる。この漫画に出あえて本当に良かった。
人の気持ちが読めてしまうドンちゃんと、その幼なじみ 鉄矢とエミ。
ドン臭いドンちゃんはいつも馬鹿にされているが、そんなことは全く意に介さない真っ直ぐな青年。そんなドンに鉄矢はどこか劣等感を感じていた。エミがドンちゃんに惹かれていることを知っていたからだ。
あるとき鉄矢の友人との火遊びがきっかけで、山火事に発展。エミの父親が死んでしまう。鉄矢をかばって罪をかぶってくれたドンちゃんは少年院に。事実を隠してエミと婚約する鉄矢。
もう鉄矢の葛藤が苦しくて見ていられない。ひどく人間臭くて汚い鉄矢に対して、聖人のようなドンちゃん。自分の醜さを認めた鉄矢が全てを覚悟してドンを探し追いかける必死の形相は鬼気迫るものがある。
ラストまでドンは非の打ち所のない男で、こんな人間いるわけない。周りの人々がみな影響を受けて立ち直っていく姿を見ていると、自分も心を洗われたような気になってくる。
あー、安っぽい言葉しか出てこない。
きりひと讃歌
人間が獣のように体毛に覆われ、骨格まで変異してしまう謎の奇病、モンモウ病。竜ヶ浦教授は伝染病だと考え、この研究の世界的発表を持って、日本医師会の会長の座を狙っていた。小山内桐人は竜ヶ浦教授に命じられモンモウ病患者の多い犬神沢村へ入るが、自身も病気にかかってしまう。
一方、桐人と一緒に研究をしていた同僚の占部は、南アフリカに飛ばされモンモウ病と非常によく似た症例をみつける。出会ったのはキツネのような顔をしたヘレン・フリーズという修道尼だった。
桐人とヘレン、人間であることを否定され続ける苦悩。竜ヶ浦教授の権力欲のために利用されたことを知り、それに抗おうとする者たち。
ヘレンのとった選択が心に残った。
彼女の支えであった占部が自死し、絶望のまま病院に連れ戻される途中、ヘレンは車の中から自分に似た境遇の人たちを見つける。公害(?)によって不自由な身体を持ちながら、それでもその地を離れることができない人たちの村だった。ヘレンは顔を覆っていたベールをとり、村人たちの世話をしながら生きる道を選ぶ。
「私ずっとここにおります みなさんのお世話をします お金はいりません
ただひとつだけ……約束してください 私の顔を見てこわがらないで…………
私人間なのです こわがることはないのですよ」
素顔を晒したヘレンに驚き、石を投げつける村人たち。しかしやがて彼女は受け入れられ、その村になくてはならない存在になっていく。
主人公「桐一」は「キリスト」をもじった名前である。
「神!そんなものいるものか すくなくとも犬になりさがった人間を救える神なんか存在するものか」
彼の行動はキリストとはまるで違うが、竜ヶ浦教授の野望を打ち砕き、「犬の先生(ドッグドック)」と慕ってくれる人々の元へ帰っていく。ヘレンと価値観は合わないようだったが、同じように生きる道をみつけた。
小学館文庫の1巻には養老孟司氏の巻末エッセイが掲載されている。手塚治虫の描く医学界が紋切り型だと書かれている。権力の虜となった竜ヶ浦教授の悪役としての姿はまさしくステレオタイプで、堕ちていく様も実に漫画的である。養老孟司氏は自身が医者であることもあり、桐人と竜ヶ浦の正義と悪に別れた正反対のキャラクターに関して批判的に書いている(医学に携わるものとしての批判)。医者にとって、ヒューマニズムの対象としての患者(桐人から見た患者)と、医学的資料としての患者(竜ヶ浦から見た患者)。本来医者とはこの両面を尊重し葛藤する人間だと。
なるほどもっともな話だと思う。
作者はすでに”医者”ではなく、”漫画家”であったのだろう。
手塚治虫が描きたかったのは、権力者の批判ではなく、権力に立ち向かう強い意志を持った者だった。
意志が弱く流されやすい私はそういう人に憧れるのだ。